
創設当時から中心メンバーのお一人として人間科学研究科の運営にご尽力され、生涯学習学専攻長(1996~2004年度)、人間科学専攻長(2005年度)、人間科学研究科長(2006~2008年度)を歴任された野島正也先生にインタビューを実施した。
インタビューは首都圏を数年ぶりの大雪が襲った2024年2月5日、東京都品川区にある旗の台校舎の理事長室にて行われた。大粒の雪が舞い落ちる窓外とは対照的な穏やかな雰囲気に包まれたインタビューであった。以下はその際に野島先生がお話しされたことをまとめたものである。
(インタビュアー:宮田 浩二?鍛冶 美幸?村上 純一)
Ⅰ どのような立場で人間科学研究科に関わったか
どのような立場で人間科学研究科に関わったか、私と人間科学研究科の関係ということですが、研究科が創設されたのが1993年です。研究科長は水島恵一先生、臨床心理学専攻の専攻長は岡堂哲雄先生、生涯学習学専攻の初代専攻長は教育学部の先生でした。二代目生涯学習学専攻長は田村栄一郎先生という社会学の先生。東京学芸大学を定年退職された後、文教に着任された先生です。
田村先生は1年間だけ専攻長を務められて定年退職され、その後を私が継いで1996年から専攻長になりました。それから9年間、専攻長をしました。その後、2005年4月に生涯学習学専攻は人間科学専攻に組織替えをして、最初の1年間、人間科学専攻長をしました。ですから、生涯学習学専攻長を9年と人間科学専攻長を1年、あわせてちょうど10年、専攻長をしました。それから3年間、研究科長ですので、合計13年間、役職にありました。人間科学研究科担当の教員としては、最初の3年間が特に役職に就いていない時期、それから13年間が役職に就いている時期ですね。この間、研究科をずっと見てきたというところです。
Ⅱ 人間科学研究科の創設と創設者
人間科学研究科の創設者は水島恵一先生です。ご存じだと思いますが、臨床心理学の大家で、『人間性心理学体系』という、全10巻、別巻2巻をあわせると全12巻の大著を書いておられます。
『人間性心理学体系』の第1巻は『人間性の探究』。これは心理学だけではなくて、「人間学」、「人間科学」といった領域についても書かれているので、教育関係のことも結構出てくるのですが、生涯学習や教育について分からないことがあると、水島先生はよく私に聞かれました。水島先生は朝早くから大学にいらして、研究室で原稿を書いておられたのですが、私が出校日でない日には、朝の7時半とか8時くらいに自宅に電話がかかってくるんです。「野島くん、これはどういう意味?」、「野島くん、これはどうなっているの?」とよく聞かれました。私はずっと夜型で、夜はいくらでも起きていられるのに朝はダメなんだけれど(笑)、聞かれたときには知っている限りのことはお話ししたつもりです。
いま、「水島恵一賞」という賞がありますが、あれは先生が亡くなられたときにまとまったお金をご遺族が大学に寄附されて、それを原資にして創設された賞です。生活科学研究所が所管していますね。水島先生は生活科学の領域にも非常に関心が強く、人間科学部を創設した時に、その中に組み込まれない部分も含めて研究を続けていこうということで生活科学研究所を設けられたので、水島先生の思い入れがいちばん深いであろう研究所に水島恵一賞の運用を委ねたということになります。生活科学研究所は、家政学部以来の知的財産が脈々と繋がっている研究所だと思います。地道に一つ一つ研究を積み上げていく文化というものが根づいていましたね。水島先生は人間科学研究科を創設した時にも、そういう総合的で地道な研究の姿勢というのは求められていたのだろうと思います。
Ⅲ 人間科学研究科、その後の変遷
創設当時の大学院生の募集定員は、臨床心理学専攻が9名、生涯学習学専攻が6名でした。その後の変遷を辿ると、大きなところでは1999年度に定員変更がありました。岡堂先生が研究科長の時だったけれど、臨床心理学専攻はとにかく志願者が多かったんですね。他大学からの志願者も大勢いて。それで、定員9名では受験者のほとんどが不合格になってしまうということで、定員増をしようということになりました。臨床心理学専攻長から「生涯学習学専攻は定員どうするの?」と言われて、生涯学習学専攻は臨床心理学専攻ほど志願者が多かったわけではないので、どうしようかと思ったんだけれど、一方が新しい定員20名で、もう一方がそのままの6名では「6ってなんだ?」ということになるから、切りのいい10名に増員することにしました。
定員増をした後の院生数をみると、定員を変更した1999年度は入学者10名で、ちゃんと定員を満たしています。その後の2年間も10名取れているんですね。ですが、2002年度から定員を満たせなくなってくる。そこから4年間、定員割れが続いたこともあって、生涯学習学専攻を人間科学専攻に組織替えしたということがあります。全体的に、臨床心理学専攻の方はたいへん宜しい。一方、生涯学習学専攻はしばらくの期間はよかったんだけれど、その後なかなか入学者を定員まで取れなくなってしまったという状況ですね。惜しかったのは2009年度、私が研究科長の最後の年ですが、石原俊一先生が人間科学専攻長で、宮田浩二先生の発案に基づいて学内推薦入学選考を導入した年です。このときの入学者は9名でした。あと1名いれば定員の10名に達したのですが、結局、私が研究科長の間には人間科学専攻は一度も定員を満たせなかったということになります。
Ⅳ 生涯学習学専攻の設置事情
大学院創設の時、臨床心理学専攻には学部の心理学専修と人間学専修から、生涯学習学専攻には以前「教育専修」と言っていた生涯教育専修と社会学専修から学生を主に集めようと考えられていました。とはいえ、特に生涯学習学専攻は、“全員野球”をしないと教授陣がもたない。教育学部からも兼担で何名かの先生に応援に来てもらっていた状況でしたからね。
「生涯学習学専攻」という名称ですが、当時は、「生涯学習学」などという学問領域はなかったと思います。なぜそのような専攻名にしたかということですが、研究科創設の10年ちょっと前、1981年に、文部省(当時)の中央教育審議会から「生涯教育について」という答申が出ているんです。この頃から、国の政策に「生涯教育」というものが入り込むわけね。そして1988年、当時もまだ文部省ですが、その部局の1つである社会教育局を組織替えして生涯学習局にするんです。その後、2001年には生涯学習政策局にまた変わるんだけれど、1980年代頃から、国として「生涯学習」を進めていこうというスタンスがあったわけ。1990年には中教審答申で「生涯学習の基盤整備」、つまり生涯学習を進めるためにはどういった制度や施設をつくっていくかというところまで話が進んでいきましたから、当時の文部省としては政策的に「生涯学習」を強力に進めたかったんですね。また、埼玉県でも、1991年に八潮市が、当時の市長は藤波彰市長でしたが、「生涯学習都市宣言」をするんです。これは県内の市町村で最初です。続く1992年には、比企郡川島町が「生涯学習推進のまち宣言」をしました。自治体でも、生涯学習を中心に町おこしをしていこうという機運があったということです。また1992年には埼玉県にも生涯学習審議会が県で初めて設置されています。つまり国でも地方自治体でも生涯学習推進の流れができ上がってきていました。文教大学は1993年に大学院創設ですから、「生涯学習学専攻」というのは時流に乗った専攻であったと言ってよいと思います。
もう1つ、学内のことで言いますと、人間科学部を創設したときに心理専修、社会専修、教育専修をつくりました。この教育専修について、隣に教育学部がある中でどう専修を特徴づけるか、学校教育との違いをどう示すか、というところで、人間科学部教育専修は「生涯教育」でいくという方針を既に打ち出していた、ということもありました。
Ⅴ 生涯学習学専攻の教授陣と院生
設立当時の教授陣は、臨床心理学専攻の方は先生が揃っていたのですが、生涯学習学専攻の方は、「生涯学習」という領域もまだ確立していない時期ですから、十分な教授陣が揃っていなかったんですね。そのような状況で、教育学部の先生などにも手伝っていただいて、なんとか陣容を整えました。
入ってきた大学院生は、当時はリカレント教育なども言われていた時期ですから、職業(学校の管理職の先生や、会社員、塾の先生など)を一度辞めて入られた方もいらっしゃれば、定年退職した後にまた勉強したいという方もいらっしゃった。だから、「リカレント教育」という点ではまさに合っていたと思います。もちろん、学部から上がってきた学生もいましたけれどね。
大学院では、研究職としての道を進みたい方々はしっかりとした研究をしていきたいと思う一方で、定年退職した後に来られた方の中には、学びたい気持ちは持っているけれども研究はどうすればよいのか分からない、という人もいるわけで、簡単に言うと別ですよね。だから、しっかりと研究の面倒をみる先生も必要だし、まず何を学びたいのかよく聞いて、それから文章の書き方から始めて2年間で論文が書けるようになるための指導をする先生も必要で、そのように指導の担当を分けながらやっていました。それはそれで大変なことでした。
施設は、大学院はずっと9号館だったと思います。最初は、研究環境はあまり良くなかったかもしれません。院生は同じ部屋に机を並べていたので、そこでは研究はしにくかったかもしれない。「一人に1台ずつPCが欲しい」という要望があって、後からそれを揃えていくなど、研究科として院生がしっかり研究できる環境をつくるのに時間がかかりました。でも、6人なら6人の院生が1つの部屋にいるわけですから、お互いに何をやっているかは分かるわけですね。そういう、1つのチームでまとまっているという良さもありましたね。
みんなで同じ部屋ということでいえば、私が文教大学に着任したときには6号館のかつて教室だったところを教育専修の教員が皆で使っていたので、教員も相部屋でした。大部屋というのはなかなか研究はできないんだけれど、他の先生が学生にどのような指導をされているのかや、部屋に来た学生が居合わせた先生それぞれに挨拶するので、教員はほとんどの学生の名前と顔が分かるという良さもありました。でも、やはり個別の研究室をいただいたときは嬉しかったですね。
Ⅵ 生涯学習学専攻の改組、その事情
生涯学習学専攻を人間科学専攻に改組した背景の1つは、先ほども触れたように大学院生が集まらなくなってきて、定員を満たせない状況が数年続いたことです。ですが、公式にはそんなことは言いません(笑)。公式には、学部と大学院の接続を強化していく、学部から上がった学生を継続して指導する体制をつくる、ということです。リカレント教育で外から来る人が少なくなってしまったので、それまでの体制ではもう成り立たない、ということが理由の1つ。
それからもう1つ、改組をしたのは2005年3月なのですが、その1年後、2006年3月で稲越孝雄先生が定年退職されました。ギリギリの指導体制を組んでいて、稲越先生には定年退職後のリカレント教育の院生ではなく研究の方の指導を主にしていただいていたのですが、その先生が退職されるということで、本当にギリギリで指導を回していたのが回らなくなってきたということがありました。このままではもう指導体制をつくれないと思いました。それも1つありましたね。
「生涯学習学」の領域で一応、一番近いところにいたのが私でした。生涯学習学専攻をつくってから結構長く経っていましたので、その体制を「変える」というのは他の先生は言い出しづらいでしょう。ですから、私から「このままの形ではもう無理です」ということをきちんと言った方がよいと思いました。そして、変えるのであれば、学部から上がってもらう、そこをしっかりとした幹に育てていく以外にはもう生き残れる道はないという思いがあって、私から提案しました。そういうことで、2005年3月ですね、「人間科学専攻」に専攻名を改めました。
やはり、「生涯学習」も潮時だったのかな。文部科学省も、県や市町村も、かつての勢いに比べるとだいぶ弱くなって…。文科省が都道府県や市町村に今までのような補助金を付けなくなってくると、自治体の熱意もしぼみますよね。今では、「生涯学習都市宣言」と言っても、世間の受け止めは「それ、何?」という感じでしょう。文教大学の生涯学習センターも数年前に地域連携センターに変わったでしょ。これもやはり時代の流れだと思いますね。
Ⅶ この先、人間科学研究科が目指す道は? ~「建研の精神」を問う~
文教大学、文教大学学園には「建学の精神」というものがあります。「人間愛」。「建研」という言葉は実際にはないんだけど、実は「人間愛」よりももっとハッキリとしたイメージを持てるのが人間科学研究科創設の精神、つまり「建研の精神」だと思うんです。水島先生の大著『人間性心理学体系』全12巻の第1巻目のタイトルが『人間性の探究』ですが、それには「人間科学としての人間学」という副題が付いているんですね。それはどういうことかというと、科学の「科」というのは科目の「科」、学科の「科」というように、「分ける?分かれる」という意味です。学問で、1つのものをいくつかに分けてより詳しく分析していく、というのはそういうことでしょう。そして、分析をすればするほど、それぞれを細かく知ることにはなるけれど、その分、狭い領域に入っていくわけですよね。それを一度総合するということが人間を全体的にみることになる、ということで「人間学」という発想が出てくると思うんです。だから、学部も、研究科も、色々な研究に取り組んでいくことはいいのだけれど、どこかで「全体を見る」、「他の領域に繋げていく」、そういう精神があるべきだ、ということではないのかな。だから、もう一度、私たちはどういう目的で人間科学研究科というものをつくったのか、それぞれの専攻が考えて、それを大事にしていければ、特色ある研究科をこれからも作り続けていけるのだろうと思うんです。
私が大学院で担当した科目で、「人間科学特講」という科目があったんです(註:現在は「人間科学特論」)。最初は、みんな「とてもとても、そんなのはできません」というわけで、オムニバス形式で各先生が自分の研究領域のことを1回ずつ話して、そして院生にはこれらを総合して全体的に理解して欲しい、という形で始まったんですね。でも、私が研究科長になる前かな、時期はちょっとハッキリしないんだけど、やはりそれはよくないなと思ったんですよ。それぞれの領域をそれぞれが少しずつ喋れば人間科学って分かるのだろうか、これは違うな、と。それで、私が「人間科学特講」の担当者になったんです。それは、もう畏れ多いことなんですけど。「人間科学」でしょ。自分の領域なんてごくごく狭いところ。それでこう考えたんです。「自分ができる「人間科学」の説明をすればいい、そうするしかない、開き直るしかない」と思って、私としては人間の発達、年齢の低い方から見れば「発達」、高い方から見れば「エイジング」、そうして「発達」と「加齢」、その2つの理論を基にして生涯の節目節目の、イベントごとの特性を理解しましょう、ということで始めたんです。そして私の後、授業の担当を神田信彦先生が引き受けてくれました。神田先生は先生なりにご自身の研究領域を拡げて対応してくださいました。やはり誰かが全体を語る、語らなければいけない、その責任はあるだろうと思うのです。神田先生が退職された後、「人間科学特論」はオムニバスに戻るそうですが、それぞれの先生が自分の領域について、「私の専門領域はこうです」と説明して終わったのでは、「人間科学特論」にはならないのではないでしょうか。先ほど言ったような「人間科学」や「人間学」の視点で、人間や社会のありようについて総合してどう理解するかを、院生の理解に任せるのではなく、それぞれの先生が「私はこう考える」とお話になれば、先生一人一人の見解は異なっていたとしても院生はその内容をしっかり受け止めることができると思うんです。そこを大事にしてもらえるとうれしいです。

インタビュー実施にあたり
野島先生が作成された「本日のお品書き」