文教大学大学院 人間科学研究科 30周年記念サイト

大熊 惠子 先生?山科 満 先生

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インタビュー?対談:大熊 惠子 先生?山科 満 先生


2024年3月18日、越谷校舎9号館臨床相談研究所にて、1971年度から2016年度まで人間科学部でご勤務された大熊惠子先生、2006年度から2009年度までご勤務され、2009年度は臨床心理学専攻の専攻長を務められた山科満先生の2名の先生方による対談を実施しました。これはその対談をまとめたものです。

(コーディネーター?記録:小林 孝雄?三浦 文子)




Ⅰ はじめに:文教大学でのご勤務歴

小林

よろしくお願いします。大学院の30周年ということで、特に実習関係でお世話になった、大熊先生、山科先生お越しいただいて、ありがとうございました。文教側は、小林と。


三浦

三浦と申します。よろしくお願いいたします。


小林

早速なんですけど、文教にいつからいつまでいらっしゃったかっていうのを教えてもらってもよいでしょうか。


大熊先生

よく覚えてないのですけど45年間いたんです。25歳になるときに文教に来て、定年退職まで居ました。7年前に定年退職、2017年です。


小林

1971年にご着任ですかね。45年間、臨床経験に関わるっていうのはすごいです。


大熊先生

最初の15年間は児童学科と人間科学科の臨床実習で、その後の30年が大学院ですよね。


小林

臨床心理学科ができたのが、1998年ですよね。


大熊先生

先日足彩胜负彩にたまたま会ったんです。あなたの頃の実習はって聞いたら、彼女が20年前かな、それこそ臨床心理士の一種指定校じゃなかったころ。だから、彼女たちの実習とその後の実習が違っているっていうのを彼女から聞いて。20年前の学生たちは、ケースが回ってこなかった。ゼミで1人ぐらいケースを持てればいいかなっていう時代だった。


小林

山科先生は。


山科先生

私は2006年着任です。正確に言うと、当時勤めていたところの仕事の関係で着任を半年遅らせた。だから(半年は)掛け持ちで(文教に)非常勤として授業を担当しました。学部の演習科目と、それから大学院の実習で、週2日か1日かな、授業に来て。残りは病院で仕事してっていうのを半年続けてから、2006年の9月末に正式着任しました。それから2010年春までいました。ですから、文教に着任するまでは現場、都立病院それから順天大学病院で医者だけやっていたと。臨床心理士取ったのも、こっちの世界いいなと思って取ることにして。何で臨床心理士取ろうと思ったのって(臨床心理士試験の)面接で聞かれて、大学で教員になりたいと思ってって言ったら失笑されたっていう(笑)正直ですねって言われた(笑)。


小林

(笑)在職年数としては4年?


山科先生

4年です。


小林

そうですかそうですか。でもその間に臨床心理学専攻長もやっておられて。


山科先生

やってたよね、はいはい。





Ⅱ 大学院での教育のあり方

小林

ありがとうございます。ちょっと中身的なことを。大学院とか大学院教育のあり方について。いろいろと制度も変わっているので。ちょっと大きい投げ掛けで申し訳ないんですけど、文教にいらっしゃった頃を振り返ってみると、どういうことを大事にしていたか、大学院の主に実習というテーマではありますけど。実習にそんなにこだわらず、大学院生に携わるというか院生の教育で、どんなことを当時は大事にしていたかなどを。


大熊先生

訳のわからないままに私もやってきているんですよね。最初の15年間は児童学科と人間科学科の臨床実習があって、その後大学院になって。児童学科の流れがある。児童学科のときは、発達障害、特に重度の発達障害の子どもたちをすごくたくさんみていたんですよね。そのときの実習生と、一緒に考えながら、この子はこういう感じだとか、こういうことが嫌だとかこういうことを好むとか、この子はどんな子かっていうのをしょっちゅう話し合っていたんですよね。要するにサークル活動の延長みたいな感じで、自由に。なるほどなっていう。学生の捉え方からすごく教わることがあった。かえって学生さんの方が1人1人の子どもについて、この子はこういうふうに感じているのではないかと思うとか、こういうふうに対応してみたらうまくいったとか。学生さんとその当時来ていた発達障害の子のお母さんたちから学んだことが大きいです。


小林

大学に来談して。


大熊先生

そうです。


小林

場所は(今と)違いますけど、相談室?


大熊先生

そうです。相談室も3回移動しているんですよ。建物を。相談室が本当にサークル、部活みたいな、いつも学生がいて。


小林

また担当というか、院生が。


大熊先生

そうです。臨床実習の学生が担当する。一緒にグループでやっていたから。学生もグループで集まって、しょっちゅう話しあって。困ってることも話して。


小林

それ担当だけじゃない学生も交えて。


大熊先生

そうです。グループでやっていたので。子どもたちの治療教育のグループ、親のグループ面接をやっていたので。


小林

一対一の担当じゃなくて。


大熊先生

ええ、グループでやっていたので。学生さんがお互いにこうしたらいいんじゃないかみたいな、そういう意見を交換していて。それが大学院になったからって何が変わったかっていうと、やっぱりケースについて。今度は個別のケースですからいつも一対一で。スーパーバイザーなんてものじゃなくてお互いの情報提供して一緒に考えて学びながらやってきた。


小林

お会いした実感を持ち寄って話し合いながら。大熊先生も、院生?学生の意見とか感想とかを(聞いて)。こちらから教えるとか指導するとかだけじゃなくて。


大熊先生

基本だけで。距離感とペース合わせみたいなところぐらいで。あとは学生ですごい感性の子がいましてね。叶わないなって。そういう子たちに教わりましたね。


小林

大学院という形式に変わって。相談、担当とはなったけれども。


大熊先生

昔の延長線上で(院生と)一緒にやればいいのかなと思っていたんですけど。全然システムが整っていなくて。(相談室は)大体事務も何もいないところでたった1人だったんですね。何でもかんでも1人でやっていたから、組織ってもんじゃなかったんですよ。


小林

なるほど。そういう日々、時代というのがあって。投げかけられて思い出すのは、そうだったなって。ありがとうございます。




Ⅲ 大学院での実習について

小林

山科先生、いかがですか。


山科先生

僕は多分、学外実習を整えたっていうことなんですね?


小林

そうです。


山科先生

何を考えてたかというと、ちょっと話が長くなるからこれカットしていただいていいんですけど。僕が大学病院の医者だったときに、他大学の実習生を指導する、その経験が出発点なんですよ。それでこっちの世界いいなと思ったんだけど。その時にね、大学によって、指導教員の個人的な繋がりで「山科この院生頼む」って、1年間びっしり付く(実習)っていうスタイルを最初に経験して。それを何年かやったあと今度順天堂浦安病院にいたときに、他大学院の院生が(実習に)来てそこは3ヶ月単位でローテーションで。要は、全員が同じ実習プログラムで。両方(のスタイルの実習を)見ていて。縁あって文教に来たときに文教は完全に前者のスタイルで。(文教は)指導教員が全部の実習の面倒見るっていうスタイルだったと思うんですよ。


小林

そうですよね。


山科先生

指導教員のコネで、ここ行きなさいって全部やってたところがあります。(院生が)実習に行けないとか自分のやりたいこととは違うなどいろいろあったり。 要は完全な徒弟制度の世界があって、その制度にうまくハマれる院生とハマれない院生がいた。実習先についていろいろ希望があるんだけどっていうことだったので、だったら全員の希望がかなう形に作り変えちゃったらいいんじゃないのって思って。なんかやっちゃったんですよ。(笑)勝手に。誰かに頼まれたかなー。提案までした記憶があるんだけど。

特に医療系の実習を希望する院生さんが多かった。院生からとにかくいろんな意見を聞いていて、よくよく聞いてみれば精神病院でどっぷりって病棟が良さそうな感じの人とか、あるいは大学病院で検査をしっかり取りたいとか、ニーズはいろいろなんだなと。いずれにせよ、医療系の実習を希望する院生さんがすごく多かったなって思います。医療系が圧倒的に少ないってことで、その当時、順天堂越谷病院、中村病院、順天堂浦安病院そこを新たに入れて、あと上尾の森診療所をもうちょっと年間通して行けるように院長と副院長とお酒を飲んで仲良くなったところでお願いして(笑)


三浦

(笑)そうだったんですね。


山科先生

あと、もとからあった阿部真理子臨床心理オフィスとかも含めて。これだけの実習先があるよって20何人ぐらい受け入れ可能な枠を作って院生の希望とって。院生の数よりはちょっと枠多めに作ったんで、大体希望がかなう感じにしたんだと思います。


小林

ああ、思い出してきましたね。確かに、組織的に誰かがやってくれって言ったかどうか記憶は全くないんですけど、山科先生が動いてくださって。選べるっていうんですかね、どこゼミとかそういうの関係なく実習先を選べるっていうシステムを作ってくださって。


山科先生

それが今も続いていている?


三浦

はい、もちろんです。


山科先生

実習先も残っている?


三浦

はい。今おっしゃった上尾の森診療所、順天堂浦安病院、順天堂越谷病院は大変お世話になっております。


山科先生

当時臨床心理士(のみ)だったので、時間数的にはそれをやらないと時間上カバーできないとかじゃなくて、院生の希望で。 山科先生:基本週1で1年間通うシステム。全ての(実習先の)場所がそういうふうに、大体実習時間も平準化されるようにしたと思います。


大熊先生

実習先がすごく増えたんですよね。


小林

すごいですよね。週1日1年間、今も基本割とそういう感じですかね?


三浦

現在は1年間のスタイルでないのを申し訳なく思っております。公認心理師が制度化されてから、実習先は3領域以上ということがありまして。今まで1年間行かせていただいていたところ、1年間行くと院生さんの負担になってしまうところもありまして。複数の領域に実習するとなると週2日実習へ行くような事態になってしまったんですよ。それで今は基本的に1カ所につき半年が実習期間となっております。


山科先生

実習先が残ってるっていうのは奇跡的だな。いやそれは作るほうも大変だけど、残す方は特に。個人的なコネで開拓したものを引き継がれた先生方って本当大変だと思います。それをちゃんと続けていただいた。


三浦

恐れ入ります。ありがたいです。


山科先生

何か嬉しい話ですね。


三浦

今でも上尾の森診療所の先生などは、融通をかなり利かせて受け入れてくださる(笑)。


山科先生

あそこはそうなんですよ(笑)


大熊先生

山科先生のところの卒業生が(上尾の森診療所で)いますよね。


山科先生

そうそう。


小林

そうです。卒業生が活躍しています。すごいです。




Ⅳ 院生に公平な機会を提供するために

小林

当時、大事にしようと思ったことは?


山科先生

一つは僕は臨床心理士の指定校、カリキュラムにリスペクトがあって。指定校として公的に教育する以上、教育の平準化って大事なんじゃないかなとは何となく思ったんですよ。僕自身は割と徒弟制度の世界で育った人間なんだけど、臨床心理士というものの教育っていうのは平等になおかつ水準を高くするっていうそれが指定校の義務なんじゃないかという気がしていました。あとそれより、院生が(実習先を)選べないのが何かちょっと気の毒だと思ったので。


小林

不自由というか。


山科先生

指導教員で割と強いコネクションを持ってる先生もいればそうでない先生もいるということで。院生さんの不満っていうのは当時は僕に言いやすかったんでしょうね、わりとね。だったら、みんながそんなに不満に思わず、やりたいことがやれる、教育の機会が保障されるようなシステムができるなって思ったんですよ。自分が開拓できそうなところが医療系で10人分ぐらいは確保できそうだってぱっと頭に浮かんだんで。


小林

僕なりの言い方で違っていたらすいませんが、院生さんの思いというか、我慢してたりっていう仕組み上ですかね、院生の立場だから従うしかないなとか仕方ないなとか、やむを得ないなとか、あるいは発揮できないものが、それを感じている院生さんがいる中、それを1人1人がやりたい学びたいっていうその思いを存分に味わえるような、そういう教育体制っていうか実習体制をやっぱり作ってあげたい、必要だ、標準化っていう意味からも。考えて、自分はできるかもしれないと。自分の経歴から。


山科先生

僕できることしかやらないから(笑)。できそうだと思ったから、勝手にバタバタ動いて(新しい体制が)できましたっていうことだったんじゃないかな。


大熊先生

院生がすごく助かったと思いますよ。その新しい体制になる前の院生さんたちは、ここ(大学院の臨床相談研究所)でケースが持てるわけでもないし、ラッキーな人しか持てないし、おまけにそういう臨床に関わる場所がないって言ってボランティアをしたり、自分で。


小林

自主開拓。


大熊先生

実習ではない、とにかく(クライエントと)関われるところに行きたいっていうんでアルバイトを探したり。


山科先生

そうだ、自分で(実習先を)開拓する、それも実習だっていう考え方だったかもしれないですね。それも一理あるんだと思うけど。


三浦

自己開拓っていう言葉が私は耳慣れなくて。現在の実習の一覧表の中に、アスタリスクで自己開拓による実習を希望する場合はあらかじめ申し出ることという一文があってこれは何だろうとずっと思っていたんですけど。


山科先生

ああ。僕が着任したときは、教員のコネクションが使える人は(実習へ)行けるしコネクションがない人は自己開拓でしたね。そうでした。


小林

地元の病院とかに院生が連絡を取ったり。


三浦

自分で実習を開拓する人が過去に結構いたという話を聞いていました。ようやくその理由や経緯がわかりました。


小林

大熊先生、長くおられてやっぱガラッと変わったっていう記憶がありますか。


大熊先生

やっぱり一種(指定校)になったところで整っていったんだと思います。(新しい体制の)前の院生さんたちは本当に気の毒だったなと。




Ⅴ 臨床相談研究所について

小林

ちなみに、今というかここ2年ぐらい、公認心理師が走り始めてからかも知れないですけど、(臨床相談研究所の)ケースが多いんですよ、結構。


大熊先生

ケース、昔少なかったのをどうしたかっていうと、地域の幼稚園や保育園、教育機関、教育相談室、児童相談所なんか関連の機関、病院も含めて、パンフレットを毎年送るようにしたんです。そうしたらケースが増えてきた。


山科先生

多分僕がいた頃からそれが始まって。


小林

はい、はい。無料相談もありましたよね。


大熊先生

無料相談はその後じゃないかな。無料相談もケースを増やすためにやったんですよね。年2回地域の各種機関や新聞にお知らせを出して、あれはいつ頃やったのかちょっと覚えていない。


小林

(臨床研の)申し込みで多いのがやっぱり口コミ。前に知り合いがここでお世話になったからとか、あと関連機関も何度も同じところから(紹介されて)来るんですよね。なので、やっぱり信頼を積み重ねていった結果なんだなっていうのがすごく実感した覚えがありますね。


大熊先生

ある幼稚園から一度(紹介されて)来るとその幼稚園からまた来るみたいな。


小林

はいはい、地域の教育相談センターとかもそうですし、病院もそうです。それ大事じゃないですか。


大熊先生

そうです。学生同士でもチームができてくる、人間関係がそこでできてくるみたいな。


小林

僕がすいません、喋っちゃいけないかもしれないけど、一昨日の土曜日が卒業式だったんで。臨床研に顔出して、相談員で長くご勤務してくださっている植竹先生、修了生、もちろん現役生もいて。縦の先輩たちが後輩たちに指導じゃないですけど、この雰囲気がなんていうんですかね、人をお迎えして何か役に立つことがあれば関わらせていただくっていうところも相談機関の大事な空気感を、文教らしさを醸し出してるというか。システマティックで何かできるとかそういうんじゃない、何か空気感があるなっていう個人的な印象を持ちました。


大熊先生

それは昔からの亡くなった水島恵一先生のカラーだと思う。


小林

なるほど。


大熊先生

本当にみんな何でもござれみたいな、受け入れちゃうみたいな、水島カラーが残ってるのかな。


小林

僕も最初来たとき、もう20年前で、臨床研がブランコとかあって幼稚園の跡地だったんで、なんていうんですかね、家に来たじゃないけど。


大熊先生

そうですね、幼稚園を改修してるから。幼稚園の事務所だとか幼稚園の教室とか台所とか(再利用できる部分はそのまま使っているから)。


小林

そう、入ったときに何て言うんですかね生活臭というか、それがあったなと思って。どんどん制度化されてく流れに適応しながら、でも文教らしさは残っていく。なんかこういうといかにも30周年企画に沿ったこと言っている感じがしてきたけど(笑)でも何かそこはなくしたくないっていうのを自分は思っていたんだなって確認した感じがありました。




Ⅵ 文教大学大学院の歴史

山科先生

核になる教員がそれぞれの時代いらっしゃって。僕が着任したとき岡堂先生はもう辞めてからずいぶん経っていたんだけど、岡堂先生の影響っていうのが残ってるわけですよ。いろんな先生がいるんだけども歴史があってその核になる先生がいるから、結果的に文教カラーっていうのが受け継がれる。そして臨床研もそれこそすごいレベル。今日伺って改めて思ったのは、すごい歴史があって45年勤めていらっしゃる方がいると、受け継がれきたもの、カラーが保たれてきた面ってのは確かにあるんだなと。核になる人がいないと、そして教員が少ないと、人が変わったときにガラッと全部変わっちゃうってことがありがちなんだけれど、いい意味であのアットホームで泥臭い臨床がずっと受け継がれてたんだな。


小林

そうそう。


大熊先生

それって水島先生ですよ。


小林

僕が最初専任で着任する前に(文教に)非常勤として勤務していたときは伊藤研一先生もいたので。伊藤研一先生なんかもう、子供と一緒に遊んだり、子供と一緒にお菓子作ったり。


大熊先生

プレイセラピーもね、伊藤先生や新たに加わった非常勤の心理士栗原さんのプレイセラピーのやり方。


小林

一番新しいというか、三浦先生何か感想も含めてどうですか。


三浦

お話を聞かせていただいた感想で、私が臨床研の制度とか実習の制度を、当たり前に受け取っていたものが、先生方がこんなに試行錯誤して、勝ち得た結果なんだと思って驚いたのと、過去の時代があったからこその今なんだなと思ってしみじみと歴史を感じました。


山科先生

いいものは大事にしてちゃんと受け継いでいくっていう、それはもうできてたっていうことは、ほんの一時居させていただいただけの身なんですけども、そこに関わることができたというのは、何かすごい幸せなことだと思っています。


小林

山科先生の文教に残した足跡は大きいです。


大熊先生

実習先でも。


三浦

私もそう思います。院生が実習先を選べるのが当たり前だと実は思っていたんですよ。実習先を選べなくて、院生さんが苦労して自己開拓までしないといけない時代を経て、山科先生が新しく制度を整えていかれたんだなと思うと、すごくご苦労されたと思います。


山科先生

順天堂越谷、それから順天堂浦安も要は自分が働いてた病院なんで、当時の上長も現場の若い人も頼みやすかったので。


三浦

今でも「山科先生の時代からの付き合いだから」と実習先から応援してもらえる部分があるんですよ(笑)。


小林

そう、僕は外部実習担当じゃないんで偉そうなこと言えないんですけど、この苦労があってのことなんだなって。


三浦

当たり前のように今も実習先リストにありますけど、ご苦労があってのこと、お話を聞かせていただいて改めて実習先を大切にしよう、絶対途切れないように本当に大切にしようと思いました。




Ⅶ 学生?院生のための制度づくり

小林

山科先生、大学にいる時間は長かったですよね。


山科先生

なんかいつも夜中まで。


小林

12号館の4階で山科先生と城先生が。


山科先生

あのね、僕文教にいて一番大変だったのが学部の教務委員。あの当時、時間割がね、ほらいろんな資格、人間科学部で教職と社会福祉士と精神保健福祉士、取れる資格があるんだけど、必修の授業を履修していってたら4年ではその資格が取れないっていう時間割だったんですよ。これは僕まずいなと思って。学部教務委員のときに絶対これ、単位を落とさずに履修してったら取りたい資格が4年間で取れる時間割にしないと駄目だよねって思って。3ヶ月ぐらい毎日夜12時までかかって、授業科目数、学部全体で500ぐらいあるんですけど、その500ぐらいを表の中に当てはめ直して、これだったら全員が取りたい資格を4年間でとれる時間割というのを作って。学部教授会では批判や不満もありましたが。


三浦

え、そんな、学生さんにとってもすごくありがたい。


山科先生

というのが時間割大改革。


小林

感謝されていたなという記憶はあまりないです。時間割を大きく動かされたということで。


山科先生

かなり動かしましたから。だけど、僕は(資格取得が可能だと)謳っている以上、それを保証するのは当然だし誰かがやらなきゃいけないことだと思ったから。僕は学部の教務委員でできる立場だからやった。


小林

すごいなと思ってそのさっきの実習先の話もそうなんですけどねやっぱり教育の公平性。学生が学びたい、学べるっていうことを提供する以上は。


山科先生

僕が個人的に教育できることって何もないんですよ。システムを作るっていうことは、汗かけばできるんで。


大熊先生

システムって大事ですよね。当時の院生にとっても、そして今も引き続いてその恩恵を被れているのですから。


小林

大学院の実習と直接は関係ないんですけど、でも何か通底するものがあります。


山科先生

うん、僕の働き方って多分そういうこと。直接学生に何かしてあげるってことはあんまりできないから。いやできると思ってたんだけども文教来てみて自分はつくづく井の中の蛙だったなって。心理の世界にはこんなにすごい人たちがいるんだっていう、本人前にして(小林先生のこと)言うのもなんだけど。


小林

いやいや。


山科先生

それで僕はここで大して教えられることもないから、だったらシステム作りかなって。とても修士論文の指導なんかできないから、俺のゼミなんか来るんじゃないって。4年間で2人しかゼミ生来ませんでした(笑)。2人ともちゃんと働いてますけどね。


小林

延々とお話聞いていたいところですが、本当に大事な話だなって。ありがとうございます。多分、大熊先生は制度とかに対応して変わっていったじゃないですか。


大熊先生

はい。


小林

院生の雰囲気と院生の臨み方も変化していって、(大熊先生は)7年前まで、今も来ていただいていますけど、そこの難しさっていうんですかね。


大熊先生

学生との関係があんまりなくなってきたから。よく院生の名前は聞くけどご本人と一致しないっていうのが出てきて、スーパーバイザーは先生がおやりになってるから、(親子で一緒にケースを)担当してる院生とは情報提供ぐらいで終わっちゃう。だから昔より院生との関わりっていうのは少なくなっていましたね。楽と言えば楽ですけど。


小林

ちょっと触発されて、口を挟んでしまうのですが、昔、みんなで集まってっていうところは僕は知らないですけどでも。僕が(文教に)来た頃、まだ水島イズムというかがあって、いろんなケースのやり方もあって、生活との連続性っていうか、そういうケースをする方もまだ珍しくない。
そういった歴史、イズムとかが外的な臨床心理士とか公認心理師っていう制度と噛み合うときにはいろんなことがあったり、すごくご苦労された先生がいらっしゃったりっていう歴史を経て、良い形で制度的にも整っていったのかなと今聞きながら思いました。




Ⅷ 院生が治療構造の枠の意味を理解するためには

大熊先生

一時期ね、あの枠、枠、枠っていうね、院生さんだから基本で枠をきちっとして学習しとかなきゃってあるんだけど。それはわかるんですが、もっと柔軟に動けないものかなって。


小林

難しいですよね。


大熊先生

それはやっぱりある程度経験して、自分で外していくというか枠の意味をもう1回考えるっていう。


小林

枠を考え無しに外して、自分もクライアントさんも、すごく大変なことになってやっぱり枠って大事だったんだなって思うと、何かそういう単なる形式的じゃないなんていうんですかね、心のこもった枠っていうか、それができるというか。


大熊先生

でも2年間の院生の実習だとね、それはもう枠で対応するしかないのかな。


小林

そうですね。枠と言えば、山科先生のご専門で。


山科先生

すっかり今は枠のない(笑)精神分析ガチガチやってたってのは信じられないなって。


大熊先生

先生にそう言われるとちょっとほっとしちゃうな。


山科先生

クリニックに勤めてると、受付時間過ぎたら受け付けないよっていうのは、そこは守らないと大変なことが。1分の遅刻をOKしてるとそれが2分に3分になり、やがて30分になるっていうのがあるんで。もう12時半で閉めたから駄目よってね。そこは守ってるんですよ。それは自分のためじゃなくて受付さんを守るために。でもそれ以外のところでは何かもう、緩くなったなー。精神分析を実践してないっていうのはあるんですけどね。でも、ちゃんと枠を外すと怖いことが起きるっていうのもよく知っているんで。枠外す前のアセスメントですよね。そこはすごく大事で、この局面だったら例外的に枠外した方がむしろセラピューティックだって思えば、ためらわず外すっていうのはあるかな。でもそこは院生さんでは難しいから。僕は院生の教育だとやっぱり枠を外すことに関してはきちんとスーパービジョンを受けながらが無難だろうなと思う。ただ、枠を外さなきゃいけない時があるんだっていうね。あるいは外すことでこれだけのメリットが生じることがあるんだっていうこともまた、逆にここ(大学院)だからこそ教えられることだと思うんですよね。孤立無援の状況で枠がないのは怖いんですけど、ここ(大学院)は集団でやるっていうことで実はもっと大きな枠がちゃんとあるんで。




Ⅸ おわりに

山科先生

何かいい時代があったんだな。その途中で、大変な時代というか、やりにくいとか、いろんなものが。実習先の開拓っていうのは、すごく表面的な制度だけども、ここをどう運営されていくかっていうのはね、一朝一夕にできるものではない、本当に積み重ねて出来上がったものなんだっていうのを今お聞きしながら思いました。本当に何十年もかけて作り上げたものですよね。きっとこれが受け継がれていって良い教育が文教では続くのかな。まるでまとめの言葉みたい(笑)。


三浦

(笑)ありがとうございます。


小林

ありがとうございました。大熊先生、何か最後に。


大熊先生

でも山科先生、先生が整えてくださったおかげでね、みんなすごい経験をしていますよね。組織をね、システムを作るっていうのは、1人1人の院生にとってはものすごいことだと思いますよね。それを享受できた。


山科先生

なんか今日来てよかったと思うんです。やっぱりオンラインだとこの空気感はなかった。


小林

確かに。そして、私達はそれをちゃんと受け継いでいかねばならぬという気持ちになりました。語り尽くせないことがいっぱいありますが、今日は本当にありがとうございました。